空手に先手なし──拳聖 喜屋武朝徳は、「長年、修業して体得した空手道の技が、生涯を通して無駄になれば (一度も実戦で使う機会がなければ)、空手修業の目的が達せられたと心得よ」 と弟子たちに諭したといいます。少林寺流の「道場訓」、「達人の教え」等々の項を仲里常延先生発行の冊子から抜粋してご紹介します。拳聖の境地に少しは近づけるかも…。


 沖縄空手道少林寺流振興会の紋章 

花びらと三つ巴で円形を模り、中心には「空手に先手無し」の公相君をイメージする図柄が位置し、沖縄の伝統武術の普及発展を象徴する。具体的には──
@沖縄の代表的紋章(右三つ巴)は、修行にあたって沖縄伝統武術のアイデンティティーを保持すること、
A「拳聖」喜屋武朝徳先生を道統にする少林寺流空手道の門葉が花びらのように美しく育っていくこと、
B共に切磋琢磨し合い永遠円満に、平和な思想を示す沖縄空手道少林寺流の最高峰の型「公相君」まで修得すること、
──を願っている。 (親川仁志先生が主宰するサイト沖縄空手道少林寺流「斯道の館」より)

 少林寺流の命名 

 喜屋武朝徳先生は、松村宗棍(首里の達人で武士松村として知られる)や、外数名の達人より、八つの型を授けられたが、師の教えた通りの型をそのまま保存継承するという無修正主義を尊重しておられた。すなわち「一器の水を一器にうつす」という禅の教えに徹したのであります。
 すなわち、自ら身に修めた八つの型には、いささかも潤色を加えず忠実にこれを守り、弟子たちに伝承されたのである。
 私もこのように、絶対に創意工夫を加えようとしなかった恩師喜屋武朝徳先生の志をくみとって型の無修正主義を尊ぶ気持ちがおこり、全ては源流にたちかえれという理念のもとに「少林寺流」と流派の命名を行なう(1955年5月)。
 「少林寺流」というのは、また、中国拳法の始源といわれ、さらに沖縄の「手」の発達に大きな影響を与えたと考えられる中国の少林寺拳法に因んだ結果の命名でもある。また現実的には、喜屋武朝徳先生の伝承された八つの型と、他の首里手(ショウリン流系)と区別するための命名の結果が「少林寺流」の主な理由である。

※ 中国では「少林拳」と呼ぶ。日本の「少林寺拳法」は、宗道臣(本名・中野道臣/1911-1980)が日本の古武道に中国滞在時に学んだ各種拳法を取り入れた日本独自の武術。禅の修養と護身を趣旨として1947年に創設された拳法の流派であり、宗教法人でもある。

 少林寺流の指導理念 

1.楷書の「稽古」であること。
2.攻防の形(技)は近道を通る(道は近きにあり)
3.瞬発力(迫力)がなければ空手ではない(徒手体操である)
4.一撃必勝の信念を持ち、その域に達すること
5.空手に先手なしの教えを、形(技)の中で表現すること
6.型の「稽古」は、鍛錬法である
7.「一器の水を一器にそそぐがごとし」の禅の教えに徹すること

 求道館の道場訓 

1.先輩を敬い、後輩を慈しむ
    それは人格の相互尊重
2.型を体得し、道をきわむ
    それは型の反復練習
3.人を愛し、言動をつつしむ
    それは達人の道

 日頃の稽古の心得 

1.型を形成している形(技)の鍛錬
  次に形(技)を集大成した型の反復鍛錬
2.楷書の稽古であること
  先輩の形を手本とするも、それはあくまで楷書の形で、
  行書や草書の形は手本にならない。
3.一撃必勝であること
  この技が失敗したら次があるんだという考え方の「稽古」では、
  真の技は体得できない。型を形成している個々の形(技)は、
  総て相手を倒したという気迫を込めて「稽古」しなければならない。
4.空手に先手なし
  専守防衛の護身術から発達した武道で、総ての型は
  受けの形(技)から始まり、そしてその形(技)は
  最短距離(道は近きにあり)を通って対応する。
  いわゆる攻防の形(技)は、相手の出方を見てから発する。
  即ち空手に先手なしの所以である。
   ◎残心を示す。
   ◎受けも攻撃である。
   ◎迫力・瞬発力のある形(技)とは、ゼロから発し、
    瞬時に最高点まで引き上げられたものである。
5.型の「稽古」は鍛錬法である
  徹底した楷書の型の反復練習によって基本を体得すれば、
  非常の際は、相手の技に対応すべく適切な技が自然に発し、
  相手の技を牽制するのである。
6.生涯修業である
  型を構成している形(技)は、実践においては、臨機応変、
  いろいろな形(技)に展開するのである。その展開した形(技)を
  原型に持ち込んで、安易に型を構成している形(技)を変えては
  ならない。そのような考えが浮かんでいるようでは、未熟な証拠である。
  型は、すでに完成されているものであり、それを正しく身につけることが
  大事なのである。迷わず型の反復練習に励みなさい。
  「一器水瀉一器(一器の水を一器にそそぐがごとし)」の禅の教えは、
  拳聖 喜屋武朝徳先生の指導理念であり、
  また少林寺流の指導理念でもある。

 達人の教え 

●空手は、打つのではなく、突くのである。
 投げるのではなく、極めるのである。
●技は、稽古によってのみ磨かれる。
●上達の近道は、平凡な基本(型)の練習。
●すべての技は、最短距離を通る。技とは、突き・蹴り・打つ。
●有効な技とは、瞬間的に全身の力を一点に集約すること。
●拳を突くとは、手ばかり突くにあらずして、気足ともに突くべし。
 拳を引くとは、手ばかり引くにあらずして、気足ともに引くべし。
 気拳体一致。
●きのうの初段は、必ずしも明日も初段ではない。今日やらなくては。
●空手に先手なしといえども、
 身は時に随い変に応ずる気構えが必要である。
●防御と攻撃はひとつである。
 防御のための技を陽、攻めの備えた技を陰とする。陰陽始めなし。
 動静現われず。道を知るに非ずんば、誰かよく勝を制するを得んや。
●拳に戦心なし。
 心正しければ、拳また正し、拳正しければ、心また正し。